「空海と真言の名宝」を見た。
まず何より、仏像そのものが本当に美しかった。
大きな仏像には、長い時間を経ても失われない貫禄がある。
そして、小さな仏像の精緻さにも驚かされた。
以前、エジプトの美術を見たときにも、その細かな造形に息をのんだことがあるけれど、今回見た小さな仏像たちのつくりも、それに負けないどころか、それ以上ではないかと思うほどだった。
ただ、今回は少し違ったところにも目がいった。
たくさんの腕を持つ仏像がある。
以前の僕は、単純に「そういう姿の仏様なのだ」と思っていた。
千手観音なら、たくさんの手。
それぞれの手に、弓や矢、刀、お花など、さまざまなものを持っている。
でも、じっと見ているうちに、ふと思った。
もしかすると、これは「動いている仏様」を表現しようとしているんじゃないだろうか。

漫画を思い浮かべた。
一つのコマの中に、右を向いた顔と左を向いた顔が描かれていたり、あたふたして手を振り回している人物の周りに、何本もの腕が描かれていたりする。
もちろん、現実にはそんなに手はない。
でも、動きを伝えるために、一つの画面の中に「時間の違う瞬間」を重ねて描く。
今なら動画がある。
動きを表現したければ、カメラで撮影すればいい。
けれど、昔の人には動画がなかった。
だからこそ、一枚の絵や、一体の仏像の中に、動きそのものを閉じ込めようとしたのではないだろうか。
右へ向かう。
左へ向かう。
手を伸ばす。
何かをつかむ。
弓を引く。
花を持つ。
刀を構える。
そう考えて見ると、たくさんの腕を持つ観音様が、急に「静止した姿」ではなく見えてくる。
そこには、ものすごい情報量の「動き」がある。
もちろん、仏像が本当に動画を意識して作られたのか、それは僕には分からない。
でも、そんなふうに想像してみると面白い。
そして、そこから現代の漫画やアニメを思い浮かべた。
日本のアニメがなぜこれほど独特で、豊かな表現を持っているのか。
その「表現の土壌」のようなものが、実はずっと昔から日本の美術の中にあったのではないか。
一枚の絵の中に時間を重ねる。
動きを誇張する。
現実にはありえない姿を使って、現実以上に「動いている」と感じさせる。
そう考えると、飛鳥、平安、鎌倉の時代から、日本人の中には、こうした独特の表現への感性があったのではないか。
もちろん、これは僕の空想にすぎない。
でも、仏像の中に「動き」を見つけ、そこから漫画やアニメの表現を思い浮かべてみると、飛鳥、平安、鎌倉から現代まで、日本の美術表現の文脈が途切れることなく、どこかでつながっているようにも感じられる。
一枚の絵や一体の仏像の中に、時間や動きを込める。
そんな感性が、形を変えながら、今の漫画やアニメにも受け継がれているのだとしたら――。
何百年、何千年という時間を越えて、今の自分たちの感性につながっているものが、実は目の前の仏像の中にもあるのかもしれない。
そう思って見ると、仏像はますます面白い。
美しいだけではない。
静かな仏像の中に、力強さがある。
そして、動きがある。
弓矢や刀、お花を手にした観音様たちは、ただ美しいだけではなく、何かを伝えようとして、今にも動き出しそうに見える。
そんなことを想像しながら見る仏像は、とても面白かった。
日本の美が、時代を越えて今につながっている。
そんな脈々と続く流れを感じながら見ることができた、素晴らしい展覧会だった。